LGBTQ+と宗教の問題について

読書と学び
Stable Diffusion XLにて生成

少し前から『傷によって共に生きる 〜弱くてやさしい牧師の説教集〜』を読んでいます。

(販売元である「教文館」のWebサイトはこちら)
https://shop-kyobunkwan.com/4911054212.html

著者の北口沙弥香師は、「Xジェンダー」を自認しているキリスト教の牧師です。

この本の主張とするところですが、聖書の中にはいわゆるシス男性・シス女性、つまり生まれながらにもった性別と性自認が一致していることを前提とする記述があります。

でも、シスジェンダーを前提としていない記述もあります。

マジョリティにしたがうことを前提とする記述もあれば、マイノリティに対する配慮を説く記述もあります。

聖書はセクシャル・マイノリティにとっては両面性のある聖典なのではないでしょうか。

私のジェンダー自認

こんなことを言うと意外に思われるかも知れませんが、私は高校生の頃、自分自身の性別が女性化することを強く唱題祈念していました。

高橋留美子さんの『らんま1/2』や、女性の主人公が活躍するジブリの作品を見て、
「男性よりも女性の方が崇高な性別なんじゃないか」
と感じてそのように内面が影響されましたが、その結果としてジェンダーの自認は不安定な状態でした。

今で言うなら、「Q(クエスチョニング)」とか「+(プラスアルファ)」に相当するジェンダー自認だったのかも知れません。

今は「シス男性」に戻っています。ただし、LGBTQの枠組みには入らないのですが、セクシャル・マイノリティに分類されるような性的指向があります。

要は今も性的少数者だということです。

日蓮門下ではどうなのか

宗祖・日蓮はジェンダーの自認の区別については直接言及されていません。

よく言われる『法華経』の「安楽行品」には修行者が身を清浄に保つための振るまいとして、近づくべきでない種類の人々について「五種不男(ごしゅふなん)の人」について言及があります。

文殊師利、また菩薩摩訶薩はまさに女人の身において、よく欲想を生ずる相を取って、ために法を説くべからず。(中略)またまた、五種不男の人に近づいて、もって親厚をなさざれ。- 『妙法蓮華経』安楽行品第十四

しかし、「修行者が近づくべきで無い」とされているのは、「五種不男の人」だけでなく、多岐におよんでいます。中には「旃陀羅(せんだら、狩猟や漁業を生業とする人)」にも近づいてはならないと説かれています。

いかなるをか菩薩摩訶薩の親近処と名づくる。菩薩摩訶薩は(中略)また旃陀羅、および猪・羊・鶏・狗をやしない、畋猟(でんりょう)・漁捕(ごぶ)するもろもろの悪律儀に親近せざれ。- 『妙法蓮華経』安楽行品第十四


これは、宗祖・日蓮の『開目抄』に

無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす、安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし – 『開目抄』

とあるように、「安楽行品」は摂受の修行、つまり『法華経』の一念三千の理論を静かな場所で思索し、瞑想することが主要な修行となる場合の条件を示しているからです。

また、『佐渡御書』には、

日蓮、今生には貧窮下賎(びんぐげせん)の者と生まれ旃陀羅が家より出(い)でたり – 『佐渡御書』

と、自身の出自が「旃陀羅」であるとさえ言われています。

このことから、宗祖御自身が「安楽行品」の修行を実践し、性的少数者を遠ざけるような振る舞いをしていたようには、考えるべきではないことが分かります。

その上で、仏教の因縁因果の理(ことわり)から考えてみると、
(1)自認するジェンダーと生まれ持った性別の違いは単なる個性であり、善悪の別は無い
(2)自認するジェンダーと生まれ持った性別の違いは過去世の悪業によって生じた罪障であり、生まれながらの悪である
(3)自認するジェンダーと生まれ持った性別の違いは現世の悪業である
という三つの立場があります。

(1)ならば、問題ありません。
仮に仏教のとる立場が(2)や(3)だったとしても、心配する必要はないのです。なぜならば、宗祖・日蓮は五障三従(ごしょうさんじゅう)の女性の成仏を説き、昼夜殺生(ちゅうやせっしょう)の武士の成仏を説き、旃陀羅の成仏を説くためです。

自認するジェンダーと生まれ持った性別の違いが業による罪障なのかどうかについて、私のような立場ではっきり判断するのは難しいのですが、そもそも仏教においては、貧しい家に生まれるのも業、謗法・邪見の家に生まれるのも業、生まれつき持病や障害を持っているのも業、生まれた国で飢饉や疫病・戦争にあうのも業だと説いています。

マイノリティとして生まれて社会の中で苦悩を感じるならば、それもまた業の為せる罪障です。

大事なことは、その苦悩を縁として信心修行に励むことができるかどうかです。

マイノリティとして苦悩を感じるのであれば、それを唱題祈念に反映させ、御本尊様と通じ合える信心に立つことが肝要なのではないでしょうか。


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