昨日の夕勤行でYouTubeの動画(日蓮正宗妙通寺の「日蓮正宗の夕勤行」)を使わず、素のままに読経唱題していったのですが、「方便品」と「寿量品の長行」では全体的に、「自我偈」は部分的に、朗々と発声することが叶いました。 唱題は少し早めの動画(モミスチャンネルの「唱題の響き 基本編 約60分」)に合わせることができました。
わたしは、2020年前後から、特に読経・唱題のときノドが詰まるようになってしまいました。 読経・唱題が苦しいのって、仏道修行をしている人なら分かるかも知れませんが、仏様から遠ざけられているような哀しさ・寂しさがあるんですよ。
試行錯誤してきましたが、動画のペースに合わせて読経・唱題するのがキツい。声はいつも絶え絶えで、泣き声で読経していました。 しかし、2月に『開目抄』を拝読して、
「この一生の間に、無始以来の謗法罪障を消滅して、仏果成就を遂げることが叶うのだ」
ということを確信としてつかんだのです。
その確信が胸に湧くと、スーッと声が通るという不思議なことが起きます。しかも毎日の勤行の中でそれが何回も続くようになり、
「謗法罪障が消滅していっているのかも」
と。
また、御住職にも相談した上で動画の再生スピードを調節しました。(それまでは怖い夢を見るので、それすらできなかったのです)そうすると、ブツブツと漢字の区切りにある句読点で息継ぎをしていた読経が、スーッスーッと続けざまに唱えられるようになりました。
そして、今日、ふと思い立って、
「ひょっとしたら動画の補助なしで読経・唱題できるのでは?」
と感じて、試してみました。 発声障害になったばかりとは、明らかに違うリズム・発音で、一気に三座を唱え切ることができました。
ただ日蓮正宗の御本尊様へ「一生成仏」の確信を持って真剣に祈念していくということの有り難さで、今は胸が熱くなっています。
日蓮正宗の信仰というのは、無明煩悩の働きを、お題目を唱えて御本尊の仏力法力をいただき、法性の働きに変化させていくという成仏の価値観を基本にしていますが、一日一日の前進はわずかであるので、本来、今日のように「明らかな変化」を感じる機会がなかなかありません。
わたしは比較的、功徳と罰があからさまに出るのですが、今日のような「毎日の積み重ねがあって初めて、振り返ることに意味がある」という、仏道修行の上のいわば「努力」をしみじみと感じたのは、顕正会をやめてから今日が初めてと言っても過言ではありません。有り難い限りです。
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