『色心二法抄』(寛元二年九月十七日・聖寿二十三歳)

平成新編御書

 色心二法しきしんにほう抄 寛元二年九月一七日  二三歳

 まづ止観・真言に付いてこのむねをよくよく意得こころうべきなり。まづこのむね意得こころえば、大慈悲心・菩提心を意得こころうべし。そのゆえ・いかんとなれば、世間のことを案ずるも、なお心をしづめざれば意得こころえがたし。いかにいはんや、仏教の道、生死しょうじの二法をさとらんことは、道心どうしんこさずんばかなふべからず。道心とは、無始より不思議の妙法蓮華経の色心しきしん、五輪・五仏の身をたもちながら迷ひけることの悲しきなり。いかにしてもこのむねをよくよくたずぬべきなり。三世の諸仏も世にでましましては、まづいかにしてもこのことわりを説き知らせばやとおぼしめす。また大日如来もこれを一大事いちだいじおぼしめして、五輪・五仏のむねを説き、即身そくしん成仏のことわりあらはしたまふ。されば釈迦如来も大日如来もあながちに・なげきおぼしめしけることは、なかなか一切衆生の迷ひの凡夫ぼんぶ、妙法蓮華経の色心をも離れ、五戒・五智・五仏の正体しょうたいをもへだてずば、あながちに仏も・なげきおぼしめすまじきを、妙法蓮華経の色心をたもちながら、五戒・五智・五仏の正体に無始より迷ひけることを・なげきおぼしめしけるなり。さればいかにしても迷ひの時も悟りの仏にてありけるぞと、このむねをよくよく意得こころうべきなり。

 諸法・多しといへども十界に過ぐべからず。十界とは一に地獄、二に餓鬼、三に畜生ちくしょう、四に阿修羅、五ににん、六に天、七に声聞しょうもん、八に縁覚えんがく、九に菩薩、十にほとけなり。この十界は東西南北中央の五方天地ごほうてんちには過ぐべからず。この中に十界のことわりが三世にしつらはれて・るなり。この十界は「迷ひの十界」・「悟りの十界」とて二法・有ること無し。ゆえに・この十界・みな悟らざるときも妙法蓮華経の色心にて・ありけるなり。
 ゆえんはいかん、地獄の衆生もみな五根五臓をもってつくる。その五根五臓とは、眼根げんこんは東方・大円鏡智だいえんきょうち阿閦仏あしゅくぶつなり。耳根にこんは北方・成所作智じょうしょさち・釈迦如来なり。鼻根びこん西方さいほう妙観察智みょうかんさっち・阿弥陀如来なり。舌根ぜっこんは南方・平等性智びょうどうしょうち宝性仏ほうしょうぶつなり。身根は中央・法界体性智ほっかいたいしょうち・大日如来なり。
 これまた東西南北中央の五方、これまた五戒なり。眼は不殺生ふせっしょう戒、耳は不邪淫ふじゃいん戒、鼻は不偸盗ふちゅうとう戒、舌は不飲酒ふおんじゅ戒、口は不妄語ふもうご戒なり。
 またこの五根は五行なり。眼は木、耳は水、鼻は金、舌は火、身は土なり。
 またこれ五色ごしきなり。眼は青色、耳は黒色、鼻は白色、舌は赤色、身は黄色なり。
 またこれ五竜なり。眼は青竜、耳は黒竜、鼻は白竜、舌は赤竜、身は黄竜なり。
 またこれ五常なり。眼は仁の徳、耳は礼の徳、鼻は義の徳、舌は智の徳、身は信の徳、ゆえにこれ・仁義礼智信とて五つの振る舞ひなり。
 またこれ五臓なり。眼は肝臓、耳は腎臓、鼻は肺臓、舌は心臓、身は臓なり。
 またこの五臓にいつつのたましいあり。こんはくじんこれなり。この五つのたましいは天の五星、地の五岳ごがくつかねて五神は五智の如来なり。迷へる凡夫の身中しんちゅうにしては五つのたましいといはれ、この五つを五智の如来なりと悟れば、五仏果徳ごぶつかとくの仏なり。
 ここに知んぬ、地獄の依報正報が・みな五智五仏の正体なりといふことを。地獄の大地は中央・法界体性智・大日如来の土なり。地獄のたきぎは東方・大円鏡智・阿閦仏あしゅくぶつの木なり。地獄のほのおは南方・平等性智・宝性仏ほうしょうぶつの火なり。地獄の釜は西方・妙観察智・阿弥陀仏の金なり。地獄の水は北方・成所作智・釈迦如来の水なり。
 かくのごとく五行は五仏の正体なるゆえに、すでに地獄も五仏の正体なり。ゆえに妙楽大師いはく「阿鼻あび依正えしょうはまったく極聖ごくしょう自身じしんしょし、毘盧びる身土しんど凡下ぼんげの一念をへず」云云。
 これをもって思ふに、地獄は遠くもなかりけるなり。衆生の五智・五仏の正体を地獄とは名づくるなり。ゆえに釈にいはく「迷へばすなはち三道の流転るてん、悟ればすなはち果中の勝用なり」と。地獄の一道をもって余道よどうをも意得こころうべし。仏は九界に遍す、九界は全く仏界の色心なり。このことわりをしらずして無始より迷ひけることよ。
 ただしこの身はなによりかしょうぜる。東西南北中央の五方、天地・陰陽・日月・五星より生ぜり。かの天地・陰陽・日月・五星はまた何よりか生ぜる。かの法は万法能生ばんぽうのうしょうたいにして、過去にも生ぜず、未来にも生ぜず、ゆえに三世常住なり。東西南北中央の五方、日月五星ははじまりたるたいにあらざれば、また我が身も不生ふしょうの身なり、法界も不生の体なり。我が母も天地・陰陽・日月・五星・法界の体なるがゆえに、我もまた法界の体なり。ゆえに生ぜる母もなく、また生ぜられたる我もなし。何をもってのゆえに、我が母もはじめて法界の体をば生ずべからず、ともに法界の体なるがゆえに。竜樹菩薩いはく「諸法はよりも生ぜず、また他よりも生ぜず。またしても生ぜず、無因にしても生ぜず」と。ただ法界不生ほうかいふしょうの体にして不可思議・不可得ふかとくなり。
 ただし生といひ死といふ諸法は天地陰陽に過ぐべからず。天の陽気、地の陰気、しばらくがっするときを生といふ、天地の二気・本有ほんぬかえるところを死といふ。ゆえに止観の八にいはく「天地の二気交合しておのおの五行・有り」と。ゆえに知んぬ、天地の二の気といふは我が父母なり。父は天なり、母は地なり。この天地の父母・和合して五色ごしきを生ぜり。その五色とはすなわち五方・五星・五仏・五戒・日月衆星の体なり。それが頭身手足等の六分の形を顕はす。骨はこれをもってささへ、髄はこれをもって長じ、すじはこれをもってひ、脈はこれをもって通じ、血はこれを以て湿うるおし、肉はこれをもってつつみ、皮はこれをもっておおふ。
 しかるに我が身をささへたる骨は北方・釈迦如来なり。我が身をへる筋は東方・阿閦あしゅく如来なり。我が身を湿うるおせる血は南方・宝性ほうしょう如来なり。我が身をつつめる肉は中央・大日如来なり。我が身をおおへる皮は西方・阿弥陀如来なり。しかるに骨のあまりは歯となり、肉の余りは舌となり、すじの余りは爪となり、血の余りは髪となる。総じて一期いちごの果報、四大しだい五陰ごおん・十二入・十八界・具足して成就せり。
 ないし・この身に天地一切の諸法を備へて、万事ばんじかたどれり。ゆえに弘決の六にいはく「頭のまどかなるは天なり。足の方なるは地なり。身の中のうつろなる種はすなわちこれ虚空こくうなり。腹の中の熱きは春夏なり。背のかたきは秋冬なり。四体は四季なり。大骨おおぼねの十二は十二月、小骨こぼねの三百六十は一年の三百六十日なり。鼻のいきの出入は山谷の風なり。口のいきの出入は虚空の中の風なり。目の二つは日月なり。目を開くは昼なり。目を閉づるは夜なり。髪はそらの星なり。眉は北斗ほくとなり。血脈は江河なり。骨は石瓦かわらなり。肉は地なり。毛は大地の上にひたる草木なり。五臓は天にあっては五星といはれ、地にあっては五岳といはれ、陰陽にあっては五行といはれ、世にあっては五常といはれ、内にあっては五神といはるる」と。ここに知んぬ、すでに一年・十二月・三百六十日、東西南北中央の五方、天地陰陽をもってこの身を造作せりといふことを。

 ただし生といひけるは来たる日月をいひ、死といひけるは過ぎく日月をもってす。しかりといへども天もあらたまらず、地もあらたまらず。東西南北中央の五方、日月五星もはること無し。しかるに天地冥合てんちみょうごうして有情うじょう非情ひじょう五色ごしきとあらはるるところを生といひ、五色のしきかえって本有無相ほんぬむそうことわりに帰するところを死とはいふなり。すべて一代聖教、顕密のむねことなりといへども、生死の二法・色心の二法・これ大事だいじにてあるなり。この生死、六道・四生・二十五めぐりて輪廻りんね・今にへず。しかるに仏はこの生死を離るるをもって仏といふ。この生死にうつり迷ふをもって凡夫といふなり。この生死をよくよく意得こころうべきなり。
 止観の五にいはく「無明癡惑むみょうちわくとこれ法性ほっしょうなり。癡迷ちめいをもってのゆえに法性変じて無明となり、もろもろの顛倒てんどう・善不善等を起こす。寒さ来たりて水を結び、変じて堅氷けんぴょうとなるがごとく、また眠り来たりて心を変じ、種々の夢・有るがごとし。今まさにもろもろの顛倒は・すなはちこれ法性にして、一ならず異ならずとたいすべし。顛倒・起滅すといえども旋火輪せんかりんのごとし。顛倒の起滅を信ぜず、ただ、この心ただこれ法性なりと信ぜよ。起はこれ法性の起、滅はこれ法性の滅なり。それを体するに、実に起滅せざるをみだりに起滅すとおもへり。ただ妄想もうぞうを指すにことごとくこれ法性なり。法性をもって法性にけ、法性をもって法性を念ず。常にこれ法性にして法性ならざる時・無し。体達たいだつすることすでに成ずれば妄想もうぞうを得ず、また法性を得ず。みなもとかえり・本にかえれば法界ともに寂なり。これを名づけて止とす」云云。明らかに知んぬ、この釈の意(こころ)は無始輪廻むしりんねの生死の法は悟りの境界きょうがいなりと釈せり。法性のゆえに生死ありけるなり。ゆえに弘決の一にいはく「理性りしょう・有るをもってのゆえに、ゆえに生死・有り、生死はを用ゆ。生死はすなわちこれなりと知らず。ゆえに日に用ひて知らざると名づく」云云。この釈のこころは我らがいとひ悲しめる生死は、法身常住の妙理にて有りけるなり。この旨をよくよく悟るべし。
 たとへば我らが生死といへるは過ぎゆく日月について生死は有るなり。さればこの日月は生死の本体にて有るなり。この日月について、東西をもわきまへ、昨日・今日をも分別し、また十二時をも分かち、三十日を一月とし、十二月を一年とすることも、世間のことにおひて前後をも乱さず、ことわりをも失はず、月日の過ぎ去るについて、残りの命・いくばくならずといふことをも知るなり。明らかに知んぬ、十界の衆生の依正二報の生死はただこの日月よりこるなり。またこれ金胎両部こんたいりょうぶの全体、本迹ほんじゃく二門の実理なり。この実理のゆえに生死は有りけるなり。この日月の本体のゆえに有りける生死なるがゆえに、弘決の一に「仏なるゆえに生死あり」と釈したまふなり。
 止観にいはく「起はこれ法性の起、滅はこれ法性の滅」と釈したまひしもただこの意なるべし。ゆえに一年十二月は十二因縁じゅうにいんねんの生死なり。正月の生の位より十二月の老死・滅の位にいたる。またこの滅の位より生のたねをついで、十界の因果・三世にあらたまらずして、十界の生死は過ぎゆく日月にてあるなり。また我ら衆生の身のみならず、草木もみなこの日月のれ生死にうつされて、我らとともに生々死々するなり。たとへば生ずるは心法なり、滅するは色法なり。色心しきしんの二法が不二なりといふは、譬へばもみを種におろすに、もみは去年の菓なれば心法なり。この心法を今年・種に下ろすにこの種子・苗と成る。心・色と成るがゆえに心法の形見えず、ただ色法しきほうのみなり。しかりといへどもこの色法の全体は心法なるゆえに、日月の過ぎ行くにしたがって生長するなり、ゆえに色心不二ふになり。色心不二ふになりといへども、また而二にになり。この色法の苗の中より、秋に至りてまたとの心法を生ずるなり、ゆえに不二ふににして而二にになり。

 かくのごとく、十界の依正、色心の二法、一法二義のことわりにして、生死常住のゆえに三世にあらたまることなし。あわれなるかな、生死の無常をいとひ悲しみ、身の常住の生死をらずしていとることよ。このことわりをしらずして、あるいはこの生死をいとひて生死なき浄土をもとめ、あるいはまたこのことわりをしらずして、生死は虚妄の物なりと観ずる人もこれ有り。悲しむべし悲しむべし。ただ・生とは心法なり・滅とは色法なり。ゆえに生死の二法は色心の二法にて有りけるなり。これすなわち真言・止観の観法、出離生死しゅつりしょうじ頓証とんしょうなり。道場所得の妙悟みょうご妙覚朗然みょうかくろうねんの知見なり。最後臨終の時はこの理を思しめし定むべし。

 九月十七日

(投稿:令和7年9月13日)

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