戒体即身成仏義 仁治三年 二一歳
安房国清澄山住人 蓮 長 撰
分かって四門となす
一には小乗の戒体
二には権大乗の戒体
三には法華開会の戒体 法華・涅槃の戒体に少しく不同あり
四には真言宗の戒体なり
第一に小乗の戒体とは四種あり。五戒は俗男俗女戒、八斎戒は四衆通用、二百五十戒は比丘戒、五百戒は比丘尼戒なり。しかるに四種ともに五戒をもととなす。婆娑論に云はく「近事律儀は、この律儀のために門となり依となり加行となるをもってのゆえに」云云。近事律儀とは五戒なり。されば比丘の二百五十戒・比丘尼の五百戒も始めは五戒なり。五戒とはもろもろの小乗経に云はく「一には不殺生戒、二には不偸盗戒、三には不邪淫戒、四には不妄語戒、五には不飲酒戒」以上・五戒。この五戒と申すは、色心二法の中には色法なり。殺・盗・淫の三は身に犯す戒、不妄語戒・不飲酒戒は口に犯す戒、身と口とは色法なり。この戒を持つに、作無作・表無表と云ふことあり。作と表と同じことなり。無作と無表も同じことなり。表と申すことは、戒を持たんと思ひて師を請ず。中国は十人、辺国は五人。あるいは自誓戒もあり。道場を荘厳し焼香散華して、師は高座にして戒を説けば、今の受くる者・左右の十指を合はせて「持つ」と云ふ。これを表色と云ひ作とも申す。この身と口との表・作に依りて、必ず無表無作の戒体は発するなり。世親菩薩云はく「欲の無表は表を離れて生ずること無し」文。この文は必ず表ありて無表色は発すと見えたり。無表色を優婆塞五戒経の説には「譬へば面あり鏡あればすなはち像現あるがごとし。かくのごとく作に因りて便ち無作あり」云云。この文に鏡とは第六心王なり、面とは表色合掌の手なり、像とは発するところの無表色なり。また倶舎論に云はく「無表の大種に依止して転ずる時、影の樹に依り光の珠宝に依るがごとし」云云。この文は、表色は樹の如く珠のごとし、無表色は影のごとく光のごとしと見えたり。これらの文をもって表無表・作無作を知るべし。
五戒を受持すれば人の影の身に添ふがごとく、身を離れずしてあるなり。この身・失すれば未来にはその影のごとくなる者は遷るべきなり。色界・無色界の定共戒の無表も同じことなり。また悪を作るもその悪の作と表とに依りて、地獄・餓鬼・畜生の無作・無表色を発して悪道に堕つるなり。ただし小乗教の意は、この戒体をば尽形寿一業引一生の戒体と申すなり。「形寿を尽くして一業に一生を引く」と申すは、この身に戒を持ちて、その戒力に依りて無表色は発す。この身と命とを捨て尽くしてかの戒体に遷るなり。一度・人間天上に生ずれば、この戒体をもって二生・三生と生まるることなし。ただ一生にてその戒体は失ひぬるなり。たとへば土器を作りて一度・使ひて後の用に合はざるがごとし。倶舎論に云はく「別解脱の律儀は尽寿と或は昼夜なり」云云。また云はく「一業引一生」云云。この文に尽寿一生等と云へるは、尽形寿と云ふことなり。天台大師の御釈に「三蔵尽寿」と釈し給へり。
しかるにこの戒体をば不可見無対色と申して、凡夫の眼には見えず、ただ天眼をもってこれを見る、定中には心眼をもってこれを見ると云へり。私にこのことを勘へたるに、すでに優婆塞五戒経に「面あり鏡あればすなはち像現あり」と云ひて、鏡を我が心にたとへ、面を我が表業にたとへ、像をば無表色にたとふ。すでに我が身に五根あり、左右の十指を合すれば五影を生ず。知んぬべし、実に無表色も五根十指のごとくなるべきを。また倶舎論に中有を釈するに「同と浄なる天眼とに見らる。業通ありて疾し。根を具す」云云。この文・分明なり。無表色に五根の形あらばこそ、中有の身には五根を具すとは釈すらめ。
提謂経の文を見るに、人間の五根・五臓・五体は五戒より生ずと見えたり。ないし、依報の国土の五方・五行・五味・五星、皆な五戒より生ずと説けり。止観弘決に委しく引かれたり。されば戒体は微細の青・黄・赤・白・黒・長・短・方・円の形なり。止観弘決の六に云はく、提謂経の中のごとし「木は東方をつかさどる、東方は肝をつかさどる、肝は眼をつかさどる、眼は春をつかさどる、春は生をつかさどる、生・存すればすなわち木・安し。ゆえに不殺はもって木を防むと云ふ。金は西方をつかさどる、西方は肺をつかさどる、肺は鼻をつかさどる、鼻は秋をつかさどる、秋は収をつかさどる、収蔵すればすなわち金・安んず。ゆえに不盗はもって金を防む。水は北方をつかさどる、北方は腎をつかさどる、腎は耳をつかさどる、耳は冬をつかさどる、淫・盛んなればすなわち水・増す。ゆえに不淫はもって水を禁ず。土は中央をつかさどる、中央は脾をつかさどる、脾は身をつかさどる、土は四季に王たり。ゆえに提謂経に云はく、不妄語は四時のごとしと。身は四根に遍し。妄語またしかなり。諸根に遍して、心に違ひて説くがゆえに。火は南方をつかさどる、南方は心をつかさどる、心は舌をつかさどる、舌は夏をつかさどる、酒・乱るれば火を増す。ゆえに不飲酒をもって火を防む」文。この文は天台大師・提謂経の文をもって釈したまへり。
されば我らが見るところの山河・大海・大地・草木・国土は、五根・十指の尽形寿の五戒にてもうけたり。五戒・破るればこの国土・次第に衰へ、また重ねて五戒を持たずして、この身の上に悪業を作れば、五戒の戒体・破失して三途に入るべし。これ凡夫の戒体なり。声聞・縁覚は、この表色の身と無表色の戒体を、苦・空・無常・無我と観じて見惑を断ずれば、永く四悪趣を離る。また重ねてこの観を思惟して思惑を断じ、三界の生死を出づ。妙楽の釈に云はく「見惑を破るがゆえに四悪趣を離る。思惑を破るがゆえに三界の生を離る」文。この二乗は法華已前の経には、灰身滅智の者、永不成仏と嫌はれしなり。灰身と申すは、十八界の内十界半の色法を断ずるなり。滅智と申すは、七心界半を滅するなり。この小乗教の習ひは、三界より外に浄土ありと云はず。ゆえに外に生処・無し。小乗の菩薩はいまだ見思を断ぜず、ゆえに凡夫のごとし。仏も見思の惑を断尽して入滅すと習ふがゆえに、菩薩・仏は凡夫・二乗の所摂なり。
この教の戒に三つあり。欲界の人天に生まるる戒をば律儀戒と云ふなり。色界・無色界へ生まるる戒をば定共戒と云ふなり。声聞・縁覚の見思断の無漏の智とともに発得する戒をば道共戒と名づく。天台の釈に云はく「今・戒と言ふは律儀戒・定共戒・道共戒有り。この名、源は三蔵より出でたり。律はこれ遮止、儀はこれ形儀なり、よく形上の諸悪を止む、ゆえに称して戒となす。定はこれ静摂なり、入定のとき自然に調善にして諸悪を防止するなり。道はこれ能通なり、真を発して已後・自づから毀犯なし。初果・地を耕すに虫・四寸を離る、道共の力なり」文。また表業・無けれども無表色を発得すること・これあり。光法師云はく「かくのごときの十種の別解脱律儀は、必ず定んで表業に依って発するにあらず」云云。この文は表業無けれども無表色を発することありと見えたり。
第二に権大乗経の戒体とは、諸経に多しと云へども、梵網経・瓔珞経をもってもととなす。梵網経は華厳経の結経、瓔珞経は方等部浄土の三部経等の結経なり。されば法華已前の戒体をばこの二経をもって知るべし。梵網経の題目に云はく「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品」文。この題目を以て人・天・二乗を嫌ひ、仏因仏果の戒体を説かずと知るべきなり。されば天台の御釈に云はく「所被の人はただ大士のためにして二乗のためにせず」と。また云はく「すでに別に部の外に菩薩戒経と称す」文。また云はく「三教の中においては・すなわち・これ頓教なり、仏性常住一乗の妙旨を明かす」文。三教と申すは頓教は華厳教、漸教は阿含・方等・般若、円教は法華・涅槃なり。一乗と申すは未開会の一乗なり。法華の意をもって嫌はんときは、宣説菩薩歴劫修行と下すべきなり。また梵網経に云はく「一切発心の菩薩もまた誦すべし:十信これに当たる 十発趣:十住 十長養:十行 十金剛:十向」と。また云はく「十地仏性常住妙果」已上。四十一位又は五十二位。この経と華厳経には四十一位又五十二位の論、これあり。この経を権大乗と云ふことは、十重禁戒・四十八軽戒を七衆同じく受くるゆえに小乗経にはあらず。また疑ふべきところは華厳梵網の二経には別円二教を説く。別教の方は法華に異なるべし、円教の方は同じかるべし。されば華厳経には「初発心のとき・すなわち正覚を成ず」と。梵網経には「衆生は仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る。位大覚に同じうし已はらば、真にこれ諸仏の子なり」文。答へて云はく、法華已前の円の戒体を受けて、その上に生身得忍を発得するなり。あるいは法華已前の円の戒体は別教の摂属なり。法華の戒体は受・不受を云はず。開会すれば戒体を発得すること復たかくのごとし。この経の十重禁戒とは、第一不殺生戒・第二不偸盗戒・第三不邪淫戒・第四不妄語戒・第五不酤酒戒・第六不説四衆過罪戒・第七不自讃毀他戒・第八不慳貪戒・第九不瞋恚戒・第十不謗三宝戒なり。
また瓔珞経の戒は、題目に「 菩薩瓔珞本業経 」と云へり。この経も梵網経の如く菩薩戒なり。この経に五十二位を説く。経に云はく「もしは退き・もしは進むとは十住以前の一切の凡夫、もしは一劫二劫ないし十劫、十信を修行して十住に入ることを得」云云。また云はく「十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚」云云。この経は一々の位に多劫を歴て仏果を成ず。菩薩は十信の位にして仏果の為に十無尽戒を持つ、二乗と成らんためにあらず。ゆえに住前十信の位にして退すれば悪道に堕つ。また人天に生じて生を尽くせども戒体は失はず、無量劫を歴て仏果に至るまで、壊れずして金剛のごとくにてあるなり。この経に云はく「凡聖の戒はことごとく心を体となす。このゆえに心また尽くれば戒もまた尽く。菩薩戒は受法のみありてしかも捨法無く、犯あれども失せず、未来際を尽くす」と。また云はく「心・無尽なるゆえに戒もまた無尽なり」文。また云はく「仏子・無尽戒を受け已はれば、その受くる者・四魔を過度し三界の苦を越え、生より生に至るまでこの戒を失はず、常に行人に随ひ・ないし成仏す」文。天台大師云はく「三蔵は寿を尽くし、菩薩は菩提に至る。その時にすなわち廃す」文。この文は小乗戒は凡夫・聖人・二乗の戒共に尽形寿の戒、菩薩戒は凡夫より仏果に至るまで、その中間に無量無辺劫を歴れども、戒体は失せずと云ふ文なり。さればこの戒は持って犯すれども、猶二乗・外道に勝れたり。ゆえに経に云はく「有ちて犯する者は、無くして犯さざるに勝れたり、有つは犯するも菩薩と名づけ、無きは犯さざるも外道と名づく」文。この文の意は、外道は菩薩戒を持たざれば戒を犯さざれども菩薩とは名づけず、菩薩は戒を破犯すれども仏果の種子は破失せざるなり。
この梵網・瓔珞の二経は心を戒体となすようなれども、実には色処を戒体となすなり。小乗には身・口を本体となし、大乗には心を本体となすと申すは一往のことなり、実には身・口の表をもって戒体を発す。戒体は色法なり、ゆえに大論に云はく「戒はこれ色法なり」文。ゆえに天台の梵網経疏に「まさしく戒体を出だす。第二に体を出だすとは、初めに戒体とは起こさずんば而已なん。起こさばすなはち性なる無作の仮色なり」文。「起こさずんば而已なん」とは、表なければ戒体発せずと云ふなり。「起こさばすなはち性なる無作の仮色なり」とは、戒体は色法と云ふ文なり。近来・唐土の人師、梵網・法華の戒体の不同を弁へず、雑乱して天台の戒体を談じ失へり。瓔珞経の十無尽戒とは、第一不殺生戒・第二不偸盗戒・第三不邪淫戒・第四不妄語戒・第五不酤酒戒・第六不説四衆過罪戒・第七不慳貪戒・第八不瞋恚戒・第九不自讃毀他戒・第十不謗三宝戒なり。
梵網・瓔珞の十重禁戒・十無尽戒も初めに五戒を連ねたり。大小乗の戒は五戒をもととなす。ゆえに涅槃経には具足根本業清浄戒とはこれ五戒の名なり。一切の戒を持つとも、五戒無ければ諸戒具足すること無し。五戒を持てば諸戒を持たざれども、諸戒を持つになりぬ、諸戒を持つとも五戒を持たざれば諸戒も持たれず、ゆえに五戒を具足根本業清浄戒と云ふ。されば天台の釈に云はく「五戒は既にこれ菩薩戒の根本なり」と。諸戒の模様を知らんと思はば、よくよくこれを習ふべし。
第三に法華開会の戒体とは、仏因仏果の戒体なり。唐土の天台宗の末学、戒体を論ずるに、あるいは理心を戒体と云ひ、あるいは色法を戒体と論ずれども、いまだ梵網・法華の戒体の差別にくわしからず。法華経一部八巻二十八品・六万九千三百八十四字、一々の文字、開会の法門・実相常住の無作の妙色にあらずといふことなし。この法華経は三乗・五乗・七方便・九法界の衆生をみな毘盧遮那の仏因と開会す。三乗は声聞・縁覚・菩薩、五乗は三乗に人天を加へたり。七方便は蔵通の二乗四人、三蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩三人、已上・七人。九法界は始め地獄より終はり菩薩界にいたるまで、これらの衆生の身を押へて仏因と開会するなり。そのゆえは、これらの衆生の身はみな戒体なり。
ただし疑はしきことは、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四道は戒を破りたる身なり、まったく戒体無し。人・天・声聞・縁覚の身は尽形寿の戒に酬いたり。既に一業引一生の戒体、因はこれ善悪、果はこれ無記の身なり。その因すでに去りぬ。いかなる善根かありて法華の戒体と成るべきや。菩薩は又無量劫を歴て成仏すべしと誓願して発得せし戒体なり。「須臾聞之即得究竟」の戒体と成るべからず。これらの大なる疑ひあるなり。
しかるを法華経の意をもってこれを知れば、十界ともに五戒なり。そのゆえは、五戒破れたるを四悪趣と云ふ、五戒失せたるにあらず。たとえば家を造ってこぼ(毀)ち置きぬれば材木と云ふ物なり、数の失せたるにあらず、しかれども人の住むべき様・無し、還って家と成ればまた人住むべし。されば四悪趣も五戒の形は失せず。魚鳥も頭あり、四支あるなり。魚のひれ(鰭)四つあり、すなはち四支なり。鳥は羽と足とあり、これも四支なり。牛馬も四足あり、二つの前の足はすなはち手なり。破戒のゆえに四足と成りてすぐにたゝざるなり。足の多くある者も、四足の多く成りたるにてあるなり。蠕蛇の足なく腹ばひ行くも、四足にて歩むべきことわりなれども、破戒のゆえに足無くして歩むにてあるなり。畜生道かくのごとし。餓鬼道は多くは人に似たり。地獄はもとの人身なり。苦を重く受けんために本身を失はずして化生するなり。大覚世尊も五戒を持ちたまへるゆえに浄飯王宮に生まれたまへり。もろもろの法身の大士、善財童子・文殊師利・舎利弗・目連もみな天笠の婆羅門の家に生まれて仏の化儀を助けんとて、みな人の形にておわしましき。梵天・帝釈の天衆たるも、竜神・修羅の悪道の身も、法華経の座にしてはみな人身たりき。これらは十界にわたりて五戒がありければこそ、人身にてはあらめ。諸経の座にては四悪趣の衆生、仏の御前にて人身たりしことは不審なりしことなり。舎利弗を始めとして千二百の阿羅漢・梵王・帝釈・阿闍世王等の諸王、韋提希等のもろもろの女人、皆な「衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲す」と開会せしことは、五戒をもって得たる六根・六境・六識を改めずして、押さへて仏因と開会するなり。竜女が即身成仏は畜生蛇道の身を改めずして、三十二相の即身成仏なり。畜生の破戒にて表色なき身も、三十二相の無表色の戒体を発得するは、三悪道の身すなはち五戒たるゆえなり。
されば妙楽大師の釈には五戒を十界にわたしたまへり「別して論ずれば、しかりといえども通の意知るべし。余色・余塵・余界もまたしかり。このゆえにすべからく仁譲等の五を明かすべし」云云。余色とは九界の身、余塵とは九界の依報の国土、余界とは九界なり。この文は人間界をもととして、五常・五戒を余界へわたすなり。ただし持たざる五戒は、いかに三悪道にはありけるぞと云ふに、三悪道の衆生も人間に生まれたりし時、五戒を持ちてその五戒の報を得ずして三途に堕ちたる衆生もあり。この善根をば未酬の善根と云ふ。またすでに人間に生まれたることもあり、これをば已酬の善根と云ふ。また無始の色心有り。これらの善根を押さへて正・了・縁の三仏性と開会する時、我が身に善根ありと思はざるに、この身を押さへて「欲令衆生開仏知見使得清浄故」と説かるるは、人天の果報に住する五戒十善も、権乗に趣ける二乗も菩薩も「皆なすでに仏道を成ず、汝ら行ぜしところはこれ菩薩道」と説かれたるなり。
されば天台の御釈に云はく「昔は方便・いまだ開せざれば果報に住すといへり。今・方便の行、すなはちこれ縁因仏性と開するに、能く菩提に趣かしむ」云云。妙楽大師は「権乗の道に趣向せし者も、一実の観・一大の弘願をもってこれを体しこれを導く」云云。かくのごとく意得る時、九界の衆生の身を仏因と習へば、五戒即仏因なり。法華已前の経にはかくのごとき説なきゆえに、凡夫・聖人の得道は名のみありて実無きなり。
さればこの経に云はく「ただ虚妄を離るるを名づけて解脱となす。その実はいまだ一切の解脱を得ず」文。愚かなる学者は、法華已前には二乗ばかり色心を滅するゆえに得道を成ぜず、菩薩・凡夫は得道を成ずべしと思へり。しからざることなり、十界互具するゆえに妙法なり、さるにては十界にわたって二乗・菩薩・凡夫を具足せり。ゆえに二乗に成仏せずと云はば、凡夫・菩薩も成仏せずと云ふことなり。法華の意は、一界の成仏は十界の成仏なり。法華已前には仏も実仏にあらず、九界を隔てし仏なるゆえに。いかにいはんや九界をや。しかるに法華の意は、凡夫も実には仏なり、十界互具の凡夫なるゆえに。いかにいはんや仏界をや。
されば天台大師は一代聖教を十五遍・御覧ありき。陳・隋二代の国師として造りたまひし文は、天笠・唐土・日本に、玄義・文句・止観の三十巻はもてなされたり。御師は六根清浄の人・南岳大師なり。この人の御釈の意・一偏にここにあり。この人を人師と申してさぐるならば、経文分明なり。無量義経に云はく「四十余年いまだ真実を顕はさず」云云。法華已前は虚妄方便の説なり。法華已前にして一人も成仏し、浄土にも往生してあらば、真実の説にてこそあらめ。また云はく「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎて、つひに無上菩提を成ずることを得ず」文。法華経には「正直に方便を捨てて・ただ無上道を説く」云云。法華已前の経は不正直の経、方便の経。法華経は正直の経、真実の経なり。法華已前に衆生の得道があらばこそ、行じやすき観経につきて往生し、大事なる法華経は行じ難ければ行ぜじと云はめ。ただ釈迦如来の御教の様に意得べし、観経等はこの法華経へ教へ入れん方便の経なり。浄土に往生して成仏を知るべしと説くは、権教の配立、観経の権説なり。真実にはこの土にて我が身を仏因と知って往生すべきなり。
この道理を知らずして、浄土宗の日本の学者、我が色心より外の仏国土を求めさすることは、小乗経にもはづれ大乗にも似ず。師は魔師、弟子は魔民、一切衆生のその教を信ずるは三途の主なり。法華経は理深解微にして我が機にあらず、毀らばこそ罪にてはあらめと云ふ。これは毀るよりも法華経を失ふにて、一人も成仏すまじき様にて有るなり。たとひ毀るとも、人にこの経を教へ知らせて、この経をもてなさば、如何かは苦しかるべき。毀らずしてこの経を行ずる事を止めんこそ、いよいよ怖ろしきことにてはそうらへ。これを経文に説かれたり。「もし人信ぜずしてこの経を毀謗せば、すなわち一切世間の仏種を断ぜん。あるいはまた顰蹙して疑惑を懐かん、その人命終して阿鼻獄に入らん。地獄より出でてまさに畜生に堕すべし、もしは狗・野干、あるいは驢の中に生まれて身・常に重きを負ふ。ここにおいて死しおはってさらに蟒身を受けん。常に地獄に処すること園観に遊ぶがごとく、余の悪道に在ること己が舎宅のごとくならん」文。この文をおのおの御覧あるべし。「もし人信ぜず」と説くは末代の機に協はずと云ふ者のことなり。「この経を毀謗せば」の「毀」はやぶると云ふことなり。法華経の一日経をみな停止して称名の行を成し、法華経の如法経を浄土の三部経に引き違へたる、これを「毀」と云ふなり。権経を以て実経を失ふは、子が親の頚を切りたるがごとし。また観経の意にも違ひ、法華経の意にも違ふ。謗と云ふはただ口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗にはあらず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるもすなはち謗なり。「すなはち一切世間の仏種を断ず」と説くは、法華経は末代の機に協はずと云ひて、一切衆生の成仏すべき道を閉づるなり。「あるいはまた顰蹙」と云へるは、法華経を行ずるを見て、唇をすくめて「なにともなきことをする者かな、祖父が大なる足の履、小さき孫の足に協はざるがごとく」なんど云ふ者なり。「しかも疑惑を懐く」とは、末代に法華経なんどを行ずるは実とは覚えず、時に協はざる者をなんど云ふ人なり。
このごろの在家の人ごとに、いまだ聞かざる先に天台・真言は我が機に協はずと云へるは、ただ天魔の人にそ(添)ひて生まれて思はするなり。妙楽大師の釈に云はく「ゆえに知んぬ、心・宝所に趣くこと無くんば、化城の路(みち)一歩も成ぜす」文。法華経の宝所を知らざる者は、同居の浄土・方便土の浄土へも至るまじきなり。また云はく「たとひ宿善あること恒河沙のごとくなるも、ついに自ら菩提を成ずるの理なし」文。称名・読経・造像・起塔・五戒・十善・色無色の禅定、無量無辺の善根有りとも、法華開会の菩提心を起こさざらん者は、六道四生をばまったく出でまじきなり。
法華経の悟りと申すは易行の中の易行なり。ただ五戒の身を押へて仏因と云ふことなり。五戒の我が体は即身成仏とも云はるるなり。小乗の意、権大乗の掟は、表にて無表を発す。この法華経は三世の戒体なり。已酬・未酬ともに仏因と説いて、三悪道の衆生も戒体を発得す。竜女が三十二相の戒体をもって知んぬべし。いわんや人・天・二乗・菩薩をや。法華経一部に列なれる九界の衆生は、みな即身成仏にてこれありしなり。止観に云はく「中道の戒は戒として備はざることなし、これを具足と名づく。中道戒を持つなり」云云。中道の戒とは法華の戒体なり。無戒不備とは、律儀・定・道の戒なり。この五戒を十界具足の五戒と知る時、我が身に十界を具足す。我が身に十界を具すと意得る時「欲令衆生仏之知見」と説いて、自身に一分の行無くして即身成仏するなり。尽形寿の五戒の身を改めずして仏身となる時は、依報の国土もまた押へて寂光土なり。妙楽の釈の云はく「あに伽耶を離れて別に常寂を求めんや、寂光の外に別に娑婆あるにあらず」文。法華已前の経に説ける十方の浄穢土は、ただ仮設のことに成りぬ。また妙楽大師の釈に云はく「国土浄穢の差品を見ず」云云。また云はく「衆生自ら仏の依正の中に於て殊見を生じて苦楽昇沈す。浄穢・宛然として成・壊ここに在り」文。法華の覚りを得る時、我らが色心生滅の身・即不生不滅なり。国土もしかのごとし。この国土の牛馬六畜もみな仏なり、草木日月もみな聖衆なり。経に云はく「この法は法位に住して世間の相常住なり」文。
この経を意得る者は持戒・破戒・無戒、皆開会の戒体を発得するなり。経に云はく「これを戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく」云云。法華経の悟りと申すは、この国土と我らが身と釈迦如来の御舎利と一つと知るなり。経に云はく「三千大千世界を観るに、ないし芥子の如き許りも・これ菩薩にして、身命を捨てたまふ処にあらざること・有ること無し」文。この三千大千世界は、みな釈迦如来の菩薩にておはしまし候ひける時の御舎利なり。我らもこの世界の五味をなめて設けたる身なれば、また我らも釈迦菩薩の舎利なり。ゆえに経に云はく「今・この三界はみなこれ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ吾が子なり」等云云。法華経を知ると申すは、この文を知るべきなり。「我が有」と申す「有」は、それ真言宗にあらざれば知り難し。ただし天台は真性軌と釈したまへり。舎利と申すは天竺の語、この土には身と云ふ。我ら衆生もすなわち釈迦如来の御舎利なり。されば多宝の塔と申すは我らが身、二仏と申すは自身の法身なり。真実には人天の善根を仏因と申すは、人天の身が釈迦如来の舎利なるがゆえなり。
法華経をこの体に意得るときんば真言の初門なり。この国土・我らが身を釈迦菩薩成仏の時、その菩薩の身を替へずして成仏したまへば、この国土・我らが身を捨てずして寂光浄土・毘盧遮那仏にてはあるなり。十界具足の釈迦如来の御舎利と知るべし。これをこそ大日経の入漫荼羅具縁品にはたしかに説かれたるなり。真言の戒体は人これを見て師に依らずして相承を失ふべし。ゆえに別に記して一具に載せず。ただ標章に載することは人をして顕教より密教の勝るることを知らしめんがためなり。
(投稿:令和7年8月3日)
(更新:令和7年8月31日)
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