前回の投稿から、かなり日にちが経ってしまいました。
前回の投稿では
『開目抄』の誓願はあくまでも折伏の誓願。日蓮正宗の信徒として折伏をするのは当たり前。
みたいなことを書いていました。
ところが…後日談です。
現在、わたしは
「毎朝毎夕の末法の要品読誦+数十分唱題だけ」で「末法の法華経の行者の心地(つまり菩提心)を決定!」
という状態です。
確かに「末法の法華経の行者」には一般的には折伏の修行が不可欠です。それに日蓮正宗信徒としては菩提寺の弘通目標に対して個人の折伏で寄与していくことで日蓮正宗の目標である広宣流布にも寄与することになるのでは?とは思います。
しかし、特殊事情があって折伏を修行する前に信心そのものを深めなくてはならない場合があります。そして、わたし自身、朝晩の勤行(読経唱題)で「末法の法華経の行者」としての菩提心に立ち、仕事上の功德をいただいています。詳しい話はまた別途になりますが、自然とアンガーマネジメントできるようになってきているというか、自分や周囲の状況を「メタ思考」で客観的に見ることができるようになりました。
ですから、外形で折伏を実践しているというのは「末法の法華経の行者」としての心地(しんち)を決定(けつじょう)するための条件では必ずしもないと思います。
わたしの場合、読経唱題が軽いてんかんの発作を伴うほどの負荷をともなっており、自分の感覚ではほとんど「命がけ」に近い経験なのですよ。
毎朝毎夕、「御本尊や諸天から見れば『ここまでやるのか』と思われるだろう」と感じるような、『開目抄』に説かれているような殉難決死の心地を、いやおうなく感じてしまっているのですね。
おそらく、菩提心に立つことができている理由は、「命がけ」だから、です。日蓮正宗の御本尊様に向かって本式の修行でお題目を唱えることそのものが「命がけ」なのです。その功徳はもはや内証に仏果を得るような広大無辺な意味合いがあるのかも知れません。(※あくまでも推測です)
もう少し説明します…
わたしはリスペリドンの副作用の影響で、勤行(読経唱題)のときに声が詰まったり、スムーズに声が出せずに途切れることがあるのです。そのためか、読経唱題のときは「勤行練習動画」が必須です。「動画」を用いずに発音・発声していると20分くらいで声が出せなくなります。
ところが日蓮正宗では朝五座・夕三座といって、方便品第二の十如是までと寿量品第十六の自我偈までを朝は5回、夕方は3回繰り返し唱えるという厳格な作法があります。この厳しい化儀(作法)を、型通り実践するために「勤行練習動画」に合わせて発声しています。
ところが、わたしの場合、動画のように読経のテンポが一定のリズムだと、軽いてんかん発作が起きます。といっても、強いめまいがして目玉がブルブル震えるだけですが。その発作が読経の最中、テンポに合わせられなくなるたびに起きます。全体としては10回から20回くらいは起きています。まさに命がけです。
『開目抄』に説かれているように
「詮ずるところは天も捨て給え、諸難にも遭え、身命を期とせん」
という殉難の心地を、毎朝毎夕、味わいながら読経を実践しているのです。
もちろん、状況の重さそのものは比較にならないとしても、わたし自身の感覚としては、宗祖日蓮大聖人が冬の佐渡において、極寒の三昧堂で読経唱題なさっていたときの『開目抄』の心地と、わたしが内証として体験している殉難の心地は、さほど変わらないように感じられるのです。
皮肉なことに、日蓮正宗の「五座三座以外は本来あるべき作法ではない」という論理にプラスして、「万全を尽くしたい」「手を抜きたくない」「やるからには当たり前のことを当たり前にできるようになりたい」というわたしの完璧主義によって、わたしは毎朝毎夕、御本尊や諸天から見たら「ここまでやるのか」という殉難の心地を味わっているわけです。
これを有り難いと受け取るか、不条理だと受け取るかは人それぞれですが、少なくとも、わたしは非営利事業のスタートアップが夢なので、「仏の主徳・仏の智慧・仏の慈悲」というリーダーの徳性を具えるうえで、きわめて有効な精神修養ではないかと感じています。
断り書きをつけておくと、ご住職には相談しています。ご住職にしてみれば、病気があるからという理由で勤行の化儀の本式を改めることは、一住職の判断ではできない、ということでした。ただし、一時的な仮の修行としての「略行」の特別な許可はいただいています。(わたしは略行ではなく本式でやっています)
なお、ここに書いたことはあくまでわたし個人の病状と主観のあり方のログであって、同じような障害を持つ人に難行苦行を勧める意図はまったくありません。読経唱題によって体調が著しく悪化するような場合、本来であれば医師や身近な宗教者によくよく相談の上、それぞれの状況に応じた無理のない実践を模索していくべきだと思います。


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