華厳経「唯心偈」は、法華経に開かれて〝死の法門〟から〝活の法門〟になる

プロフィール的なもの

私のハンドルネーム「心如(しんにょ)」は華厳経の「唯心偈(ゆいしんげ)」に由来しています。華厳経「唯心偈」を論じている宗祖日蓮の御書・御遺文に『八宗違目抄』(文永九年二月作)というものがあります。

華厳経に云はく
心は工(たく)みなる画師(=絵師)の種々の五陰を画(えが)くがごとく、一切世間の中に法として造(つく)らざること無し。心のごとく仏もまたしかなり、仏のごとく衆生もまたしかなり。心と仏とおよび衆生と、この三つは・差別無し。もし人・三世一切の仏を了知せんと欲(ほっ)せば、まさにかくのごとく観ずべし、『心はもろもろの如来を造る』と」

— 宗祖日蓮『八宗違目抄』より

上記に引用した「心はたくみなる絵師のごとく」はこのブログの名前の由来でもあり、ハンドルネーム「心如」の由来でもあります。

冒頭の「心は工(たく)みなる画師(=絵師)の種々の五陰を造るがごとく、一切世間の中に心より造らざることなし」という経文は、法華経の一念三千から言っても大事です。

意味合いとしては
〝絵画を巧みに描く者は、キャンバスの上にまるで生きているかのごとくの造形を描き出す。これと同じようにその人の世界のすべてはその人の心によって描き出され、作り上げられているのである〟
というところでしょうか。

ここで注意しなければならないのは華厳経の立場と法華経の立場は違うということです。

華厳経は「心の中に世界のすべてを作り出す絵の具があり、世界は心を投影したキャンバスにすぎない」という立場です。これを「心造」と言います。

法華経は「心に世界のすべてが具わっている」という立場です。これを「心具」と言います。

この華厳経と法華経の立場の違いを説き顕わさんとされたのが、上記に引用した『八宗違目抄』です。

華厳経の説く立場は、法華経の説く「己心に大宇宙の一切を具える」という一念三千の理論を前提として振り返って見たときに初めて円満な仏教となるのです。

華厳経に限らず、法華経に説かれる「二乗作仏」「久遠実成」「凡相成道」という一念三千の理論を前提として振り返って考えないと、お釈迦様の一代の説法はすべて〝死の法門〟であって、〝活の法門〟にはなり得ないのです。

逆に言えば、法華経の理論を前提として振り返って見たときに、華厳経の「唯心偈」はゾンビ状態から活性化されて生き返るのだ、と言えるでしょう。

「唯心偈」については今後も折に触れて記事を書いていこうと思います。

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