昨日の記事の続きになります。昨日の記事に追記で書いたのですが、長文になってしまったので別記事にしました。
昨夕(10月14日夕方)、住職から「若本と名乗る人から日中、お寺の電話に連絡があった」と。なんでも、わたしが匿名若本sに〝法論〟を一方的にふっかけてきたのに、匿名若本sの方で場所を「都内」で所属宗派の「寺院」以外の場所に指定したら、わたしが「逃げた」と宣伝している、と。
わたしは匿名若本sを〝折伏〟しようとは考えていましたが、まさか彼が〝法論〟をふっかけられたと認識しているとは考えていませんでした。わたしの方で「リアルな布教」と言ったわけですから、わたしは匿名若本sが「入信・勧誡」を前提とした会話、つまり〝折伏〟に応じるのかと考えていました。
簡潔に言ってしまえば〝法論〟というのはどちらの宗派の教義が正しく・どちらの宗派の教義が間違っているかを決める討論のことです。
なにが悲しくて、きちんとした所属宗派を持たない匿名若本sと、きちんとした所属宗派があるわたしが〝法論〟しなければならないのか分かりません(笑)。
思うに、彼は今までいつ日蓮門下から反撃を受けるかビクビクしていたんじゃないでしょうか。ちなみに、わたしの所属宗派の場合、許可がないと〝法論〟はできません。
わたしが「リアルの布教」と言っているのに、匿名若本sは〝折伏〟ではなく〝法論〟をいきなり想定していたので「話を録音公開する」という話が出てきたようです。わたしが「布教」と言っているのは〝折伏〟のことです。
わたしはきちんとした所属宗派を持たない仏教マニアの匿名若本sと〝法論〟をするつもりは最初からありません。所属宗派がはっきりしない人間の場合、教義として言葉に出すものも流動的で一過性のもので、はっきり言って〝法論〟の相手にはならないんですよね。
過日、「興門資料刊行会」という名前で富士門流各派の書籍を復刻していた出版社の代表の家まで行って布教を試みたことがありましたが、教義的な話に持ち込もうとすると立場が二転・三転して定まらない。逃げているばかりでお話しになりませんでした。
もちろん、一般的に、法論を申し入れてきた方の所属宗派が明らかで、わたしの方の宗派でも許可が出るような場合は法論はお受けしています。
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