記の九に云はく「もしそれいまだ開(かい)せざれば法・報は迹にあらず、もし顕本しおわれば本迹・おのおの三なり」と。文句の九に云はく「仏・三世において等しく三身あり。諸教の中においてこれを秘して伝へず」と。
┌法身如来
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仏──┼報身如来
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└応身如来
┌正因仏性
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衆生─┼了因仏性
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└縁因仏性
┌小乗経には仏性の有無を論ぜず
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衆生の仏性──┼華厳・方等・般若・大日経等には衆生・本(もと)より正因仏性有って了因・縁因無し
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└法華経には本より三因仏性有り
文句の十に云はく「正因仏性は(※法身の性なり)本と・まさに通亘(つうこう)す。縁了仏性は種子・本と有って今に適(はじ)むるにあらざるなり」と。
法華経第二に云はく
「今・この三界はみなこれ我が有なり」(※主・国王・世尊なり)。
「その中の衆生はことごとくこれ吾が子なり」(※親父なり)。
「しかも今・このところはもろもろの患難多し、唯だ我れ一人のみ能く救護をなす」(※導師なり)。
寿量品に云はく「我もまた・これ世の父」文。
┌主─国王─報身如来
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├師────応身如来
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└親────法身如来
五百問論に云はく「もし父の寿の遠きを知らざれば、また父統の邦に迷はん。徒(いたず)らに才能と謂(い)ふとも全く人の子にあらず」と。また云はく「但だ恐らくは才・一国に当たるとも父母の年を識らざらんや」と。
古今仏道論衝(※道宣の作)に云はく「三皇已前はいまだ文字有らず。○但だその母を識ってその父を識らず。禽獣(※鳥等なり)に同じ」等云々(※慧遠法師・周の武帝に詰める語なり)。
問うて云はく、華厳経に一念三千を明かすや。答へて云はく「心・仏・及衆生」等云々。止観の一に云はく
「此の一念の心は、縦ならず横ならず不可思議なり。但だ己のみ爾るにあらず、仏および衆生もまたまたかくのごとし。
華厳に云はく
『心と仏とおよび衆生と、この三つは差別なし』と。
まさに知るべし、己心に一切の仏法を具すことを」文。
弘の一に云はく
「華厳の下は引いて理の斉(ひと)しきことを証(あか)す。ゆへに華厳に初住の心を歎じて云はく
『心のごとく仏も亦た爾(しか)なり、仏のごとく衆生も然(しか)なり、心と仏とおよび衆生と、この三つは差別無し。諸仏はことごとく【一切は心より転ず】と了知したまへり。もしよく・かくのごとく解すれば、彼の人・真に仏を見たてまつる。身・またこれ心にあらず、心・またこれ身にあらず、一切の仏事を作すこと自在にして未曾有なり。もし人、三世一切の仏を知らんと欲求(よくぐ)せば・まさにかくのごとく観ずべし、【心はもろもろの如来を造る】と』
もし今家のもろもろの円文無くんば、彼の経の偈の旨、理として実に消し難からん」と。
小乗・四阿含経
┌─三蔵教──────心生の六界※心具の六界を明かさず。
│
│ 大乗
├─通 教──────心生の六界※亦た心具を明かさず。
│
├─別 教──────心生の十界※心具の十界を明かさず。
│
│ 思議の十界
│ 爾前・華厳等の円
└─円 教──────不思議の十界互具
法華の円
止の五に云はく
「華厳に云はく『心は工(たく)みなる画師の種々の五陰を造るがごとく、一切世間の中に心より造らざることなし』と。『種々の五陰』とは前の十法界の五陰のごときなり」と。
また云はく
「また十種の五陰、一々に各十法を具す。謂はく如是相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等なり」文。また云はく「それ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心にあり」文。
弘の五に云はく
「ゆへに大師、覚意三昧・観心食法および誦経法・小止観等のもろもろの心観の文に、ただ自・他等の観を以て三仮を推せり、ならびにいまだ一念三千具足を云はず。ないし、観心論の中にまた・ただ三十六の問ひを以て四心を責むれども、また一念三千に渉(わた)らず。唯だ四念処の中に、略して観心の十界を云ふのみ。ゆへに止観に正しく観法を明かすにいたって、ならびに三千を以て指南となす。すなはちこれ終窮究竟の極説なり。ゆへに序の中に説己心中所行法門と云ふ。まことにゆへ有るなり。請ふ尋ね読まん者・心に異縁なかれ」と。
止の五に云はく
「この十重の観法は横竪(おうじゅ)に収束し微妙精巧なり。初めはすなはち境の真偽を簡(えら)び、中ごろはすなはち正・助、相ひ添ひ、後はすなはち安忍無著なり。意(こころ)円(まど)かに法・巧みに該括周備(がいかつしゅうび)して初心に規矩(きく)たり。まさに行者を送して彼の薩雲(さつうん)にいたらしむ(※初住なり)。闇証の禅師・誦文の法師の能く知るところにあらず。けだし如来積劫の懃求(ごんぐ)したまへるところ、道場の妙悟したまへるところ、身子の三たび請するところ、法譬の三たび説きたまふところ、まさしく茲(ここ)にあるに由るか」と。
弘の五に云はく
「四教の一十六門ないし八教の一期の始終に遍せり。今、皆な開顕して束(つか)ねて一乗に入れ、遍く諸教を括りて一実に備ふ。もし当分をいはば、なお偏教の教主の知るところにあらず。いはんやまた世間の暗証の者をや。けだし如来の下は称歎なり。十法はすでにこれ法華の所乗なり、この故に還って法華の文を用ひて歎ず。迹説は、すなわち大通智勝仏のときを指して以て積劫(しゃっこう)となし、寂滅道場を以て妙悟となす。もし本門に約せば、『我本菩薩道』のときを指して以て積劫となし、『本成仏』のときを以て妙悟となす。本迹二門ただこれこの十法を求めて悟るなり。身子等とは、寂道にして説かんと欲するに物機・いまだ宜(よろ)しからず、その苦に堕せんことを恐れて、さらに方便をほどこす。四十余年・種々に調熟し、法華の会に至って初めて略して権を開するに、動執生疑して慇懃(おんごん)に三請す。五千・起ち去ってまさに枝葉無し。四一を点示して五仏の章を演(の)べ、上根の人に被(こう)むらしむるを名づけて法説となし、中根はいまだ解せざればなほ譬喩を悕(ねが)ひ、下根は器劣にしてまた因縁を待つ。仏意(ぶっち)・聯綿(れんめん)として・この十法にあり。ゆへに十法の文の末にみな大車に譬へたり。今の文の憑(よ)るところ、意(こころ)・ここにあり。惑者はいまだ見ず。なお華厳を指し、唯だ華厳円頓(けごんえんどん)の名を知って而して彼の部の兼帯の説に昧(くら)し。まったく法華絶待の意を失ひて妙教独顕の能を貶挫(へんざ)す。迹・本の二文を験(しら)べ五時の説を検(かんが)ふれば円極・謬(あやま)らず、何ぞすべからく疑ひをいたすべけんや。このゆえに結して、まさしく茲(ここ)にあるかといふ」と。
また云はく
「初めに華厳を引くことをいはば、重ねて初めに引いて境相を示す文を牒す。前に心造と云ふは即ちこれ心具なり、ゆえに造の文を引いて以て心具を証す。彼の経第十八の中に、功徳林菩薩の偈を説いて云ふがごとく『心は工(たく)みなる画師の種々の五陰を造るがごとく、一切世間の中に心より造らざることなし。心のごとく仏も・また爾(しか)なり、仏のごとく衆生も・然(しか)なり、心と仏とおよび衆生と、この三つは差別(しゃべつ)なし。若し人、三世一切の仏を知らんと欲求せばまさに是くのごとく観ずべし、【心はもろもろの如来を造る】と』。今の文を解せずんば、いかんぞ偈の『心造一切三無差別』を消せんや」文。
諸宗の是非・これを以てこれを糾明すべきなり。恐々謹言。
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